大和文華館「文字を愛でる 経典・文学・手紙から」展

また大和文華館を訪ねた。

今度は書を見る。
「文字を愛でる 経典・文学・手紙から」展だ。

 

書を鑑賞するのは、初めは苦に思えるときもあった。
読めないものを目で追うのは忍耐がいる。
そのうち読もうとしないで、気楽に眺めるようになり、いいなぁと思うときが増えた。
良し悪しは分からない。ただ私なりに馴染んできたのだろう。

 

さて、今回の国宝は何だろう。
「一字蓮台法華経 普賢菩薩勧発品」(平安時代後期)
ひゃー、お経の一文字一文字が蓮の花の台に乗っている。
何と丁寧なものだろう。
巻物の余白も金銀を散らした草花などの装飾が施されている。
心を尽くし、祈りを込めて、つくられたものであることが伝わってくる。


お経を記したものは皆、一字一字が真剣に書かれていて、こちらも息をつめて見る。

 

 

物語や和歌を記したものは、もう少しゆったりと鑑賞できる。
和漢朗詠集断簡 伊予切」(平安時代後期)、「伊勢集断簡 石山切」(平安時代後期)、「小倉色紙 天の原」(鎌倉時代)など、美しく装飾が凝らされた料紙や屏風の上に流れるような文字が浮かんでいる。歌や物語の内容だけでなく、文字そのものと、それをのせる紙や工芸品までが一体となった世界を楽しむ、優雅の極みだねぇ。


貴族的な作品が多い中で、尾形乾山筆の「春柳図」(江戸時代中期)に出会うと、どこか温かみを感じてほっとする。

 

 

さて、後半は手紙を表装したものが多数展示されている。その書き手がすごい。
源義経、足利義光、松永久秀豊臣秀吉古田織部本阿弥光悦……


ホントに生きていたんだねぇ。はるか遠く、もう人間を超えた存在のように思われた歴史上の人物たちなのに、手紙の文字に触れただけで、にわかに実在を感じる。

 

会場の終わりに富岡鉄斎の20通の手紙を貼って作られた屏風「鉄斎書簡貼交屏風」(1901年頃)を見て、挿絵を大いに楽しんだ。

 

身近な人のものでも、筆跡はさまざまな思いを起こさせる。
手書きという行為がどんどん廃れていく昨今、人の書いた文字を大事に手元におく、などというゆかしい行いは消滅するかもしれない。

何が残り、何を残すのか、ふと、たいそうなことを思った。

 

 

大和文華館「やまと絵のこころ」

梅が見頃になりそうだ。

和文華館のお庭はどうかな。

「やまと絵のこころ」展があとわずか。

今まであまり興味がなかったが、「やまと絵」というものを見に行こう。

 

 

梅見物のついでに、と軽い気持ちで訪ねたら、のっけから重要文化財やら国宝やらがお出ましで嬉しい衝撃。

「寝覚物語絵巻 ねざめものがたりえまき」(平安後期 国宝) 

とてもきれいだ。よくぞここまで色彩の美しさを保っているものだ。

悲しいストーリーのようだが、絵巻は金銀の装飾がこらされ、鮮やかな色彩で描かれて雅やかなものだ。
屋敷の屋根が取り払われて上から物語をのぞいているような構図だ。

 

 

いっぽう重要文化財の「源氏物語浮舟帖」(鎌倉時代)はとても繊細な白描で、平安時代の女性の長い黒髪の美しさが描かれている。線に太い、細いがないせいか独特な表現に思える。

 

続いて、岩佐又兵衛俵屋宗達尾形光琳尾形乾山酒井抱一…… 誰もが一度は目にし耳にしたことがあるお名前が並ぶ。


緻密に描かれた人物や風景、それを取り巻く金色の雲か霞が場面を引き立てている。

たまには、王朝風な、貴族的なものに触れるのもよいかぁ。

 

 

後段は岡田為恭(おかだためちか)という幕末の画家の作品を中心に復古やまと絵の世界を案内してくれる。

岡田為恭は平安・鎌倉の古画を勉強し、たくさんの作品を模写したそうで、会場には「善教房絵詞模本」と「粉河寺縁起模本」が展示されていた。

両方とも人物の表情や仕草が面白く、漫画を読んでいるような楽しさがある。

 

これは入り口付近のポスターを近接撮影したもの。きれいに撮れているので、直に作品を撮影したみたいに見えて怒られそうだ。(「伊勢物語八橋図 岡田為恭筆」の部分)

 

六曲一双の屏風「春秋鷹狩茸狩図屏風」も見事だった。季節の表現、緻密で華やかな人物群像、鮮やかな彩色、金の霞がたなびいて、私が抱くやまと絵のイメージにぴったりだ。

 

はて、この美しくきらびやかな「やまと絵」は現代にどのように受け継がれているのか、いないのか、そんなことも知りたくなる。

 

そして何より、湯木美術館に続き、何気なく、稀少な逸品を見せてくれる美術館を訪れることが出来て、大阪に戻ってきた幸せをかみしめる。

 

 

 

 

 

湯木美術館 早春展「春の茶道具取合せ」

また大阪で生活費を稼ぐことにする。

「東洋美術に触れられること」は、ほかのことには代えられない。

 

早速湯木美術館の春季展示を見に行く。

「春の茶道具取合せ」 湯木吉兆庵が昭和59年1月15日に行った茶会の再現展示だそうだ。

いいね、いいね。

新春のあらたまった緊張感と、うきうきとした期待感が伝わってくる。どんなお客が訪れたのか。

実際、お茶会に招かれることはないけれど、掃き清められたお庭や、冷たく澄んだ空気、華やいだお客の装いが浮かんでくる。

 

 

「甲子大国祭図きのえねだいこくまつりず」(白隠慧鶴はくいんえかく筆 江戸時代18世紀)白いネズミたちが何やら賑やかしい。大国様と白ねずみの取合せで、いかにもおめでたい掛物だな。

「少庵寄附」という文字のはいった円満な姿のお釜(与次郎作 室町~江戸時代)がどっしりと構えている。

水指は「古染付山水図水指」(明時代17世紀)だ。芋頭だったかな。

 

お道具を見ただけで、お客の心は弾んだことだろう。

 

メインのお茶碗は 黒茶碗 銘「曙あけぼの」(一入作 江戸時代17世紀)。

なるほど、黒い肌の中に鮮やかに赤い斑点が見える。これが銘の由来だそうだ。

どうして、こんなに朱い色が出ているのだろう。

形は小ぶりにまとまって、両掌におさまる大きさ。箆跡や作者の手が触れた感じが残っている。

茶道に使うお茶碗というのは、触れて飲んでみないと、あるいはその経験を積まないと、わからないところがあるようだ。特に楽焼を拝見するとそう思う。

私はいつもは均整の取れた薄手の青磁白磁が好きだ。だから茶道の茶碗を見るのは勉強である。

 

さて、名品はまだまだたくさん展示されている。

菊蒔絵大棗(原洋遊斎はらようゆうさい 江戸時代19世紀)、唐物茶入 銘「紹鴎(みほつくし)茄子」(重要文化財 南宋~元時代)、釘彫伊羅保茶碗 追銘「老松」(朝鮮王朝時代16~17世紀)………

この美術館は小規模だけど、見ごたえすごいなぁ。いつもそう思う。

 

私は「富士」という銘がある唐津焼茶碗(江戸時代17世紀)に見惚れた。枇杷色というのか灰ベージュの基調の中で明暗や色味が変化する。茶染みや金継までがデザインとなって見飽きない。

 

さて茶会の雰囲気を堪能したねぇ。2月下旬からの後期展示も楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

江別市セラミックアートセンター 2023/10/4

私は間に合わなかった。仕事を辞めて大阪から帰ってきた私を見て、母は自分の子供とは認識できなかった。
母の認知症と身体の衰えは急速に進み、家族の介護はすぐに行き詰まり、家から入院へ、そこから施設へと進んだ。
医療と福祉の関係の方たちには、感謝の言葉しかない。
母は別人のようになったが、しばらく穏やかに暮らしてくれれば、それでありがたい。

 

ここ何か月間で、一か所だけ、江別市にあるセラミックアートセンターに行くことができた。
今日はそれを記録しておこう。

 

広々とした敷地に赤レンガの大きな館が悠然と建っている。

 

 

小森忍(1889-1962)の作品が見たくて、江別市セラミックアートセンターを訪ねた。
中国宋代の陶磁器を理想として、陶磁器研究に一生を捧げ、日本の陶磁器生産、陶芸界に大きな足跡を残した方として知られている。
2年ほど前だったか、収集品の図録(小森忍の陶磁器Ⅲ 江別市セラミックアートセンター)が発行されたときに、送って頂いたことがある。
そこには、様々な表情を見せる作品が展開されていて、うわぐすりの魔法を使っているのかしらん、と思った覚えがある。

 

 

館内の空間もゆったりとして、教室工房や窯室も備えた、素晴らしい施設だ。
北のやきもの展示室というエリアの1室が小森忍の記念室となっている。
ありがたくも撮影してもよいとのことで、非常に嬉しい。

 

 

中国古陶磁の研究から生まれた様々な技法を用いた作品が並んでいる。
一見するとまとまりなく、バラバラに見えてとまどう。図録を見たときも、同じ感想を持った。
しかし、これらの作品が一人の陶芸家の作品というより、窯業生産という大きな目的のための研究成果であると見るといろいろな作品があることが理解できる。

 

 

それにしても、どのような風にも出来てしまうんだねぇ。

作品名を並べるだけでも多彩な内容がうかがわれる。

 

辰砂花入、均窯手盃、砧青磁瓢瓶、瑠璃釉花瓶、

海鼠釉鉢、蒼翠宝石釉直口瓶、三彩釉灰皿、瑠璃宝石釉直口瓶
飴釉抜絵文鉢、瑠璃銀彩香合、白地黒掻落しアイヌ文壺 

 

 

 

中国陶磁の研究にとどまらず、日本人が日常につかえる陶磁器を創作探求されておられたのだろうか。

和風というでもなく、洋風というでもない。すっきりしていながら、凝縮されたものが詰まっている。「民芸」として有名になった器たちとはちょっと違う感じ。
器の肌がとてもきれいで、嫌みのない味わいと風情がある。
こんな器を使ったら、日常生活が豊かになりそうだ。
しかも使いやすそうで、長く愛用できるだろう。

 

 

あぁ、佳いものを見たねぇ、すっきりした。介護やら入院・入所準備やらでなんだかしんどかった。

久しぶりで素晴らしいやきものを鑑賞できて、気が晴れた。
図録(「小森忍 日本陶芸の幕開け」2009年)を一冊求めたので、帰ってからじっくり楽しむことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

特別企画展「隠逸の山水」大和文華館

仕事を辞めて、部屋を引き払う。母親から「どちら様ですか?」と言われる前に帰らなあかんと思っていたが、間に合わないかもしれない。恐ろしいほど老衰の症状が進む。
やることリストは意外にも多く、気ばかりあせる。

 

 

そんな中、これで最後と思って大和文華館を訪ねる。
しばらく東洋美術に触れることはないだろう。
沈鬱な気持ちを抱えながら、庭園を歩くと、随分春めいていて、気分が明るくなる。

後で、梅園を見てみよう。

 

 

「隠逸の山水」か。隠逸というと、中国の知識人の理想かなと思うが、この展覧会では、隠逸のテーマにふさわしい日本の作品が展示されている。
中国の文化、技術を真剣に学び受け入れた室町時代から、多様な表現が生まれた江戸時代にかけての山水画が中心だ。

 

屏風の作品がいくつも展示されている。その前に立てば、画面の世界に入り込めるようだ。
かぐわしい森の空気、清い水の音、吹き渡る風、ひとり深い山に分け入ったような心境になる。

満ち足りた静寂が存在している。

 

展示室の中に違う空間が大きく開けている。これこそ絵画の魅力だなぁ。
その空間に飛び込んで、静かに澄んだ水面を眺め、心穏やかに過ごしたい。


屏風の前にぼうっと座って、いっときだけでも、いらいらとした心を鎮めた。

帰る前に、咲き始めた梅に見とれて、春を楽しむ。

 

 

東京の泉屋博古館では東洋陶磁美術館の名品が展示されているらしい。
会いたくても会えない人を想うようだ。いつかまたあの作品たちに会いたい。

ため息を押し殺して、大阪を後にする。

 



湯木美術館早春展「春の茶道具取合せ」

湯木美術館の早春展が始まった。昭和40年早春に湯木吉兆庵(貞一)が開いた茶会の再現展示とのことだ。
入室すると、格式高いお茶会に招かれたような気分になる。

 

 

一筆書きの釜の絵?がある明恵高弁筆の消息(鎌倉時代 13世紀)が掛けられている。
続いて、その茶会の中心となった茶飯釜(和田國次作 17世紀 江戸時代)というご飯を炊くこともできる釜が置かれている。蓋のデザインがおしゃれだ。
この釜を茶事の中心にするとは、どんなことを意味するのだろう。

 

そして、とても抑えた感じがする千宗旦作の竹一重切花入れ(銘「白雪」江戸時代 17世紀)と、明るい枇杷色の器肌に、金継がほとんどデザインとして映える井戸脇茶碗(銘「長崎」朝鮮王朝時代 16世紀)が並んでいる。

 

お茶会に行ったことがなくても、お道具の値打ちがちっともわからなくても、展示室に漂う澄んだ緊張感、上品な華やかさ、時を経たものの重厚さを味わうことはできる。

 

熊野懐紙(藤原雅経筆 鎌倉時代 1,200年頃 重要文化財)という掛物は、後鳥羽上皇が熊野詣をした折に開かれた和歌会で詠まれた歌2首が書かれたものだ。
そのような歴史的イベントから生まれた史料でもある芸術品が、よくぞ残っているものだ。
掛物は美しい表装を見るのも楽しいな。

 

朝鮮王朝時代の名碗がいくつも展示されている。その中で、「由貴」という銘の御所丸茶碗(17世紀)は特に印象に残った。
これは高麗物というんだろうねぇ。お茶の道具って、鑑賞のポイントがいろいろあってむずかしい。
わび・さびの風情を大事にするお茶道具の中には、パッと見て、ん?と思うものがよくある。
私は一種のオブジェのように鑑賞しているなぁ。

 

合間に置かれた酒井抱一筆の短冊(「梅一里」江戸時代 18-19世紀)や鈴木其一作の屏風(「四季草花図」)が日本のお正月らしい色どりを添えている。
砂張写建水(三好木屑作 昭和 20世紀)はてっきり砂張という金属かと思ったら、漆芸品であってびっくりした。

 

喫茶文化とともに中国からもたらされた茶碗などを唐物と呼ぶそうであるが、私は唐物が好きだ。その貴重な唐物が、今日まで受け継がれて一般に見せてもらえるのは「茶の湯」の文化が続いてきたからだろうと思う。だから、茶道に縁遠い生活であっても、少しは学ばなければと思う。鑑賞の仕方が邪道であっても。

 

都会のビルの一室に一歩足を踏み入れると、すごいものが存在している。
驚くほど手軽に本物に出会うことができる貴重な美術館だ。後期展示には「佐竹本三十六歌仙絵 在原業平」がお出ましになる。こちらも是非お訪ねしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大和文華館「明清の美―15~20世紀中国の美術」

どうも絵画を見ても、やきものを見るときほどわくわくできない。特に山水画は惹かれながらも楽しめない。わくわくしなくてもよいが、もう少し、自分の心に、静かに水墨山水を味わうような気持ちを育てたいものだ。


年末は勉強のつもりで、大和文華館特別企画展「明・清の美-15~20世紀中国の美術」を訪ねた。いくつか記録して、覚えておこう。

 

 

「山水図冊」(査士標 さしひょう 清時代 康煕12年 1673年 兵庫県立美術館蔵)
美しい書と穏やかな山並みの画が合わさって展示されている。画面に小さく人物が描きこまれている。筆遣いと墨の濃淡だけで、小さな紙面に広い世界が表現されているなぁ。

 

「冬景山水図」(陸治 りくち 明時代 16世紀)
ひび割れたような、積み上げられたような岩肌を持つ山が屹立している。見るからに寒そうな情景が伝わってくる。

 

水墨山水画では、木を描く技、水を描く技、雲を描く技、山を描く技など、それらの熟練した技のうえに、奥行きのある風景が築かれていると感じるのだが、

「山水長巻」(龔賢 きょうけん 清時代 17世紀 泉屋博古館蔵)
この作品はその部品のひとつひとつがとても小さい。物凄い数の小さな墨の点が集まって成り立っている。筆が走ったり、偶然ににじみが出たりということは認められなかったみたいだ。重量感がある。

 

 

「冬景山水図」(惲向 うんこう  明時代 17世紀)
やわらかくのびやかな筆致が気持ちよく感じられる。文人画とはこういう絵をいうのかな。
細長い紙面の上に限りのない世界を表現している。どうやって画面を構成するのだろう。実際の風景に関係なく、自由に画面を作っているのか、写生から再構成しているのだろうか。

 

「秋林罷釣図(しゅうりんひちょうず)」(徐枋 じょぼう 清時代 康煕30年 1691年)
これこそ水墨画の理想の世界を描いているように思える。遥かに見える山の姿、澄んだ水面に浮かぶ舟、枝を伸ばす樹々は紅葉しているかもしれない。

 

「山水図冊」(方士庶 ほうししょ 清時代 雍正6年 1728年)
淡い墨で描かれた繊細な画面。どこか夢の世界のようだ。このような山水画もあるんだなぁ。

 

「閑屋愁思図(かんおくしゅうしず)」(高其佩 こうきはい 清時代 18世紀)
静かに物思う秋の風景 絵の前に腰かけて鑑賞し、時間を共にする。
「指頭画(しとうが)」という指や爪を用いて描いた作品。
タッチや色彩がとても好きだ。タペストリーになったら、都会の室内にも似合うだろう。

 

 

山水画をゆっくり眺めて、画家の筆遣いを目で辿る。かすれた筆跡、大きく筆を動かしたり、どこまでも細密に描いたりしているところをめぐる。そうやって画面の世界に入り込めたら、何だか楽しめるようだ。

 

大阪市立美術館の「揚州八怪」展で勉強した作家の作品にも、いくつも出会い、経験が重なった。鑑賞の機会を増やすことはやはり大事だ。
これからは山水画の前を素通りしないだろう。